生態系の価値

生態系の価値を計算してくれと頼まれることがある。社会科学分野、人文科学分野の様々な研究者とお付き合いがあり、そういう人たちと共同して社会科学分野の共同研究を行って論文を書いたこともあるが、もともとは自然科学系の水産研究者だから、どうしたものかと戸惑ってしまう。悪く言えば偽物、良くいったとしても素人が何かを偉そうに分析するという感じになる。市場価値とか経済価値という意味ならば、経済学の専門家に頼めばよさそうなものだし、実際、環境経済学という学問分野もある。どうして、自分に声がかかるのかと考えると、声をかけた自然科学者の気持ちもわからないではない。市場価値とか経済価値というのが、価値の計算としては何となく落ち着かない、納得できないのでしょうね。もともと「価値」という言葉が持つ広がりは、「市場価値」や「経済価値」よりももっと広い。「俺の人生には価値があるのか?」とか、「己の存在価値は何か?」と自ら問いかけるときの「価値」は、「市場価値」や「経済価値」ではない。環境経済学者が生態系サービスの価値を市場価値として計算した論文を、自然科学者が読むと、彼らはもっと広く生態系の機能を捉えているから、「市場」に現れる部分だけで評価されても違和感がある。たとえば、海の生態系サービスの価値の分布を地図に落としたものを、海洋学や海洋生態系の専門家が見ると、海洋の価値は、ほとんど沿岸部に限定されて分布する。そんなことはないだろうと不満に思う。実際、温暖化の原因とされる二酸化炭素の吸収の半分は海洋が行っている。この大きな機能を無視して、陸上と海洋の生態系の重要性を比較されても困ると思うのは当然だろう。たしかに、価値のすべてを「市場価値」で表現することはできない。環境経済学者の作るマップは、市場価値として表現できる価値の分布なのだ。こうした活動の代表的なものがTEEB(The Economics of Ecology and Biodiversity:生態系と生物多様性の経済学)だ。人々は、生態系がもたらす恩恵を金銭を支払うことなく享受してきた。そのために、経済活動の中で生態系の保全の重要性が軽視され、生物多様性や生態系の劣化が進んできたという反省がある。生態系サービスの機能を、市場で取引される様々なものに置き換えて、その価値を数値化するのは、生態系サービスの価値の一部を数値的に可視化するためだ。それによって、ある行為が経済的な利益をもたらしたり、何かの利便性を提供したりして、社会の厚生を増加させ面があると同時に、生態系サービスの機能の劣化を招く場合、その利害得失を具体的に議論することが可能になる。こうした計算には、実際的な有効性・意義がある。しかし、おそらく、生態学や環境学の専門家は、こうした部分を切り取った議論の有効性や正確さについて疑問を持つだろう。気候帯や生態系の区分など、地球上の環境や生態系を空間的・機能的に区分することはあるが、実際には、環境や生態系は部分に切り離されることなくお互いに関係性を持ちながら機能している。だから、ある部分の機能の低下は別の部分の機能を招いたり、反対にある部分の機能低下を他の部分が補ったりする。理想的に言えば、こうした連関も含めて、価値評価ができればよいのだが、場合によってはかなり難しい。特に、観測データの乏しい外洋生態系がどのようなメカニズムで成り立っているのか、いまだにわからないことが多い。程度の差はあるが、海洋生態系でなくても、すべての生態系機能のメカニズムが現代の科学ですべてわかっているわけではない。環境や生態系にかかわる研究者は、一方で代替法による「市場価値」の計算に意味を認めながら、その限界を感じて、その一人歩きを危惧して、生態系の価値の全体を評価できないかと考えているのだろう。しかし、実際、これは不可能だろう。そもそもわからないことを評価することはできない。Unknown unknowns(わからないことさえわからない)という言葉があり、生態系の保全活動では、この言葉もしばしば強調される。これは最近の傾向だが、この傾向に筆者は疑問を持つ。わからないことがあることをきちんと認識していることは重要だ。しかし、最近になってこのことが強調されることが不思議でならない。おそらく、多くの人はわからないことがあるということを常に認識している。わからないことがあるということを前提に、日常的に様々な判断をしている。それを「知恵」(経験や学習によって身に着けた判断力)というか「智慧」(内在的に人が持っている判断の仕方)というべきかはよくわからないが、学歴・職業・社会的な地位にかかわらず、そうした「知恵」ないし「智慧」を豊かに持っていた人は、社会の様々なところに存在した。Unknown unknownsなどと偉そうに言われても、彼らにしてみれば今更なんだというだろう。もし、それが、「科学」によってすべてが説明可能で予測可能だと多くの人が思っていることに対する警鐘だとすると、そのような誤解が生まれたのは、誤った科学教育によるものだろう。こうした「科学過信」は、東日本大震災のように科学の限界が示されると、一瞬にして「科学不信」ないし「科学者不信」に変質する。これはこれで危険なことだ。科学は科学として学ばれ、発展していかなければならないが、おそらく、人が宇宙の真理のすべてを明らかにすることはない。その中でよりよい判断をしていくためには「知恵」ないし「智慧」を高めることが必要なのであり、科学知識と同時に「知恵」ないし「智慧」の涵養を、不可欠な要素として知育の中に取り入れなければならない。

何故、こんなことを書くのかというと、最近、ある研究プロジェクトの中で、一般に日本人の中に、こうした「知恵」ないし「智慧」なのではないかと思う心理的な傾向を見つけたからである。これは、日本人だけの特性なのか、人類が広く持っている本能のようなのものなのかはまだわからないが、広くそのような傾向が人類にあるならば一つの発見だろう。現在、論文を執筆中なので詳しく書けないのだが、その概要を書いておく。

 

私たちは、海の生態系保全に貢献しようとする日本人の意思を調べた。具体的には、海の二酸化炭素吸収機能と魚などの水産物の供給機能の維持に対して、どのくらいのお金を支払うか、いわゆる支払い意志額を調べた。もちろん、人は様々で、全く支払いたくない人から、支払について、全く抵抗がなく、積極的に支払いたい人まで、様々な人がいたのだが、全く支払いたくない人は、1割から2割、全く抵抗なく積極的に支払いたいひとが、1割強いた。支払いに対して、負担を感じながらも多くな金額を支払いたい人を含めると、2割以上の人が高額な負担を引き受ける意思があることが分かった。次に、この人たちが、日常的にどんなことを重視しどんな判断をしている人たちなのかを調べた。結論的に言うと、どちらも、判断するときに、外側から与えられる外的な規範よりも、自らの内的な価値観を大切にし、地球温暖化等に対する科学的な情報に対する信頼性についても違いがなかった。明確に違ったのは、他者との関係についての価値観である。全く支払わない人は、他者との関係をあまり考えない傾向があり、反対に支払い意志の高い人は、他者を信頼し、その関係を大切にする傾向がある。具体的には、「見知らぬ人10人がいてお互いに相手が見えない時、各人が0円から2000円を支払うと、その金額を合計して、その金額と同額のお金を主催者が提供するので、それを10人で分けるというルールがあるとき、いくら支払うか。」という問いに対して、お金をいくら出すか、その金額を問うという質問に対する答えである。環境保全に対する支払い意志の低い人は、ほとんど支払わないで、リスクをとらずに、ただ利益だけを得ようとする。反対に支払い意志の高い人は、自らも高額を支払って、全体の利益に貢献しようとする。また、支払意志の高い人は、海や自然や魚食に対する親しみが深いが、面白いことに、特に願い事がない場合にも、神社に比較的高いお賽銭を払おうとするのは、支払意志額が高い人であり、支払意志額の低い人のお賽銭の金額は低い。このことから考えると、支払意志額の高い人が関係性を大切にしている他者には、人間以外に、自然や精霊のような霊的な存在も含まれている場合もある。

生態系保全に貢献しようとする人間の欲求がどんなものであるのか、様々な解釈があり得るが、少なくとも、仮に見ず知らずの人であったとしても、そのことが他者に知られることがないにしても、何の貢献もせずに他人の貢献によって、自分が一方的に利益を得ることに対して後ろめたさを感じる人たちであることは確かだろう。お互いに協力し合う人間関係の維持に金銭的利益以上の価値を感じているに人々である。とても面白いのは、たとえご利益がなくても、神社にお賽銭を収めて、神と自分との関係を維持しようとすることである。それに対して、支払意志のない人はそういう関係性の価値を無視できる。そういう違いがある。経済的利益を含めて自分が得る具体的な利益以上に、よくわからない関係性を維持しようとする。そういう人々が生態系保全に対する高い貢献意志を持っている。そしてそれは無視できないほど大きい。そうだとすれば、「市場価値」という形で、生態系の価値を可視化する以上に、そういう関係性の維持尊重という人の持つ「知恵」ないし「智慧」の涵養の方が、生態系や環境に維持には有効かつ必要だということにならないだろうか。

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