紅旗征戎非我事
紅旗征戎非吾事
隣国の韓国では、大統領の弾劾で大騒ぎだが、その様子を見て、私の頭に浮かんだのは藤原定家であった。定家とはどんな人かを、最もわかりやすく言うと、百人一首を作った人ということになる。百人一首の個々の歌は、それぞれの歌人が作ったものだから、正確には、鎌倉幕府の宇都宮頼綱という御家人の別荘(小倉山荘)の襖絵として、万葉集以来の和歌集の中から100人の歌人の歌を選んで、装飾用の色紙に書いた人ということになる。定家は、その時代の和歌の第一人者で、百人一首の中の彼の歌は、「来ぬ人を、松帆の浦の夕凪に、焼くや藻しおの身も焦がれつつ」というものすごく暑苦しい歌である。現代語に直訳すると、「船で来ると言ったから、松帆の浦で待っていたのに、一向に来ない。そのうち夕凪になって風が止まって、クソ暑いのに、そばで焚火を始めたやつがいる。ふざけんな馬鹿野郎」という歌である。これは、直訳というやつで、背景を考えないで字面だけで訳すとこうなる。間違えているわけではない。和歌というのは恋歌が多く、その多くは失恋の歌である。それを前提に、松帆の浦という場所を考えると、色っぽい歌になる。松帆は淡路島北部の港で明石海峡に面している。当時は製塩業があった。平安や鎌倉時代の製塩は、海に生えている藻潮草を燃やして塩を得ていた。この藻潮草を刈るのは女性で、今でいえば海女である。藻潮草を焼いているのは若い海女である。こうなると、この歌は、突然色っぽい歌になって、セミヌードの女性が表れる。
この女性が、帰って来ない男を待っているのである。港で待つ女というのは、演歌にしばしば出てくるテーマで、例えば、森進一の「港町ブルース」は港で男を待つ女の歌である。港町ブルースの女はかなり年が行っているのであるが、定家の歌の女性は、まだ若い、初恋だから、男が帰ってくることを信じて待っているのである。この状況に最も似ているのは、演歌だと都はるみの「あんこ椿は恋の花」である。長くなるので一部だけ引用する。
三原山から 吹き出す煙
北へなびけば 思い出す
惚れちゃならない 都の人に
寄せる思いが 火と燃えて
あんこ椿は あんこ椿は
アァア アン アン すすりなき
(あとはネットで調べてください。)
定家の歌の情緒とはかなり違うという意見があるかもしれないが、定家の歌は、男が女性の気持ちを書いているので、男の願望が入っている。定家自身は政府の役人だから、現地の女性と恋愛をしても、その女性を現地に捨てて都に帰るということを、平然としてできる。そういう種類の人間である。そういう人間の勝手な願望を書いているのだ。もし女性の立場で歌ったら、都はるみの様に、力を込めて、アーアーアンアアンアと力いっぱい泣くかもしれないだろう。まさにその場面である。ここまで書いて思いついたのだが、ひょっとすると、この歌には教育的な価値があるかもしれない。あまり若くしてそういうことをすると、そんな目に合うから、不順異性交遊をするなと、実例を挙げて女子中高生に教育する歌として使えるだろう。
教科書を紐解けば、この歌は本歌どりの和歌で、本歌があるという説明があると思う。残念ながら、私は本歌が何か知らない。教わったけれど、忘れてしまったのかもしれない。本歌が詠まれた背景がわからないと、定家のこの歌に込めた真意は、よくわからない。だがとにかく、藻潮草を焼いているのは女性なのだ。書かれた言葉だけ読めば、港で男を待つ女の歌である。そうでなければ、夕凪の暑さに頭に来た男の歌と解釈するしかない。
さて、それはそれとして、紅旗征戎非吾事。コウキ、セイジュウ、ワガコトニ、アラズと読む。紅旗というのは何か。よくわからないが、多分、旭日旗のような軍旗で、平家の赤旗のことかもしれない。征戎はそのままエビスを征服することで、そのまま読めば、「争いごとは、私の知ったことではない。」ということになる。
元々は中国の古典にあるのだろう(漢文そのままの感じだから)。この言葉は、明月記に出てくる。明月記は、定家の書いた日記だと、ネットを調べると出てくるのだが、我々が書く日記とはかなり違う。平安時代の身分の高い公家の多くは日記を書いている。公家の世界は、先例主義というやつで、何かをするときに前例に倣って行う。皇位継承で3種の神器などというどうで良いものが今でも出てくるのは、先例主義からだ。町内の祭りだって先例主義だ。これを有職故事という。公家の争いごとでは、それぞれの主張の正当性を先例主義によって裏付ける。そうなると、過去の例を多く知っている方が有利だ。だから、身分の高い公家の家では、日記のような形で前例を記録しておく。定家はそれがしたかったのだと思う。明月記は、私的なことだけを書いた日記ではない。個人的感想を含めた記録というべきだろう。明月記は、定家が18歳の時から始まり、56年間にわたり書かれているのだが、現存するものは、定家自身が日々自らの手で記したものではない。定家が72歳で出家したあとに、自分自身が書いた日記を元に書き写したもので、定家自身もこの浄書に参加しているが、数人が右筆として浄書に加わっている。だから現存するも明月記には、定家自身の書も含まれているが、他の人の書も含まれている。その内容は、その時点で、書き換えられている可能性がある。ここが問題を複雑にしている。明月記の日付をそのまま信じれば、定家は、かなり若くして、高らかに「紅旗征戎、吾が事にあらず。」と言ったことになる。つまり、政治や軍事でなくて、和歌の世界一筋に生きると宣言したことになる。そのように理解した上で、定家の和歌、たとえば、代表作の一つ、「春の夜の夢の浮橋とだえして、峰にわかるる横雲の空」(春の夢のような淡い恋愛が終わって、空を見上げると、雲が流れて、山の峰によって、2つに分かれていく。私とあなたの様に)を読むと、幻想的で耽美的な世界が表れて、定家の生き方を、芸術至上主義的な生き方だったのだと思ってしまう。今でいえば、大谷翔平や藤井聡太のように、若くして自分の生きるべき道を見つけて、まっしぐらにその道を進んで、大芸術家になったという感じになる。和歌だけで、定家を評価する人の間では、そのような評価が多いと思う。芸術の道にまっしぐらだったから、公家としてはあまり出世しなかったという評価なっている。しかし、このような理解は正しくないような気がする。あまり、出世しなかったと言っても、権中納言になっているのだ。良く知らないけど、その上は、中納言、権大納言、大納言、太政大臣しかないと思う。多分、現代の会社で言えば会社の役員にはなっている。かなり高い地位だ。後鳥羽上皇に取り入ったり、武家側では源実朝(征夷大将軍)にも和歌を教えて、弟子にしている。だから、定家は、当時の最高権力者の傍らにいた人物であり。決して権力の中核から遠い人ではない。苦労はしたのだろうけれど、藤原家でも傍系の定家がそこまで出世すれば十分だと思う。出世欲のある人で、決して芸術至上主義者ではない。和歌は後鳥羽上皇や実朝に取り入ったりする道具として機能したのだ。
ちなみに、百人一首の後鳥羽上皇の歌は、「人もをし、人もうらめし、あじきなく、世を思う故に、もの思う身は」で、現代文に訳すと、「いいヤツもいるけど、ヤなやつもいるから、嫌になっちゃうよナー、俺だっていろいろ考えているのに、やってらんねー。」という、まことに素直に自分の気持ちを歌った歌である。後鳥羽上皇の歌は素直に自分の気持ちをうたったものが多いとされているので、この現代語訳で良いと思う。百人一首の源実朝(鎌倉右大臣)の歌は、「世の中は常にもがもな、渚こぐ、海人の小舟の、綱手かなしも」。現代文に訳すと、「世の中はこうでなくちゃいけないよな。渚をいく漁師の船の上のロープもナンカかっこいいぜ。」となる。実朝は若くして暗殺された悲劇の将軍なのだが、子供の時に征夷大将軍になって、そのまま大人になっちゃった。ボンボンで、和歌や蹴鞠など公家趣味だ。万葉集のような、のびやかで、屈託のない、おおらかな歌が多い。斎藤茂吉は、実朝を歌人として絶賛している。そうかもしれないけど、のんびり、こんなどうだっていい和歌を詠っているから、甥の公暁にあっさり暗殺されちゃったんだと思う。実朝という名前は、後鳥羽上皇が与えた名前だから、実朝と上皇の関係は多分よかったのだと思う。ほんとのところは良く知らないけど。実朝の暗殺後、鎌倉幕府は執権の北条氏の支配になる。多分それで、後鳥羽上皇は、もっと「やってらんねー」となって、頭にきて承久の乱をおこして、島流しになったのだと思う。これも良く知らないけど。
それはそれとして、明月記が浄書されて現本が廃棄されたのは、その後のことだから、もし、その浄書の時に、定家が「紅旗征戎非吾事」と書き加えたのであれば、だいぶ話が変わってくる。何故書き換えたかったのかという話である。
まず、考えられるのは、言い訳である。定家は後鳥羽上皇に仕えていたようなものだし、公家と武士は対立関係にあったとしても、後鳥羽上皇と実朝は、お互いに趣味が共通して、関係は良かった。この人間関係の中に定家もいた。そのうちの一人が暗殺されて、もう一人は島流しだ。結果的に、定家の属する公家勢力の政治的力は衰退し、北条氏による執権政治となってしまう。賊軍側として、定家の立場は、あまり居心地の良いものではなかったと思う。だから、「ボク関係ないからね。だって、ボクは歌人でそっちに夢中で、それ以外のことはワカンナイモン。」と言いたかったのかもしれない。もう一つは、「嫌になちゃった説」である。定家は歌会の後や新古今集の編集会議の後などに、後鳥羽上皇の愚痴を多分聞いていたのだと思う。実朝だって、母親の北条政子が、ああーやれ、こうやれと、うるさく干渉(多分、和歌なんか詠んでいないで、弓・剣道・馬術のおけいこをしなさいと、口うるさかったんじゃないかと思う。)してきて、ボクどうすればいいのと、和歌のおけいこの時に、定家に相談したかもしれない。定家自身、自分だって、心ならずも、様々な戦いや、政変に付き合ってきたけれど、今考えると、そんなことをせずに、和歌だけやっていればよかったと、つくづくそう思ったのかもしれない。それで明月記の内容を書き換えたのではないか。私には、その方が納得がいく。私は、定家の歌があまり好きではない。確かにすごくうまいし、その技巧は和漢に通じた豊富な知識に裏打ちされている。たとえば、「来ぬ人を・・・・」の百人一首の歌だって、かなり知識量がないと意味が伝わらない。知識のない私に意味が伝わったのは、たまたま、私が水産関係の研究者で、古代の製塩法を知っていて、「港で待つのは女」という演歌のルールを知っていたからだ。それは定家にとっても私にとっても幸運だった。それがなければ、教養のない私に歌の意味が分るはずがない。暑くて頭に来た男の歌にしか読めない。定家に言わせれば、そんな無知な奴は、自分の歌の鑑賞者として想定していないということなのだと思うが、こっちとしても、「ああーそうかい。じゃーサヨナラ」となってしまう。多分、定家という人は、気の強い勉強家なのだと思う。かなりの勉強量で努力家だ。そして、ある程度出世した。怠け者の私としては、そこが好きになれない。阿保みたいな実朝の方が好きだ。定家にしても、さまざまなことがあって、晩年を迎えて、自分の好きな和歌をもっと楽しんでやればよかったと思って、改ざんしたのかもしれない。
やっと、ここで、話が韓国の政治に戻る。言いたいことは伝わっただろうか。何となく伝わったかもしれないが、一応、説明しておく。
つまり、あんなことに国を挙げて夢中になっているのが、わからないのだ。何でそんなことに夢中になれるのか。夢中になって、自分たちの考える悪を成敗しようとしている。韓国の中に、「紅旗征戎非吾事」と言える人は一人もいないのか。多分、いるのだろうけれど、そういう人は取り上げられずに、表に出てこないのかもしれない。国会前とか特殊な場所を除くと、韓国の町は比較的落ち着いているようだ。それはそうだろう。多くの人にとって、大統領の罷免などというのは、どうでも良いことだし、韓国経済がうまくいかないのは、中国に経済に過度に依存したからで、その構造が改善されない限り、誰が大統領になろうと韓国経済が良くなるはずがないということも理解しているのだろう。そういう人は表に出てこないということなのかもしれない。
私がそう言うと、政治的無関心が良いのかと、目を三角にして批判してくる人がいる。政治に無関心な人が多いから、世の中が良くならないのだという主張だ。では、私も真顔で訊くが、人々の政治的関心が高いと政治が良くなって、人々の生活が楽しく豊かになるのか、そういう事例があるのか、そしてそれはどういうメカニズムによるのか。答えてくれ。人々の政治的関心が高いのは、一概に、対立が激しく政治が混乱している国であり、そういう国の国民は不幸だ。そう言うと、帰ってくる反論は、「それは因果関係を取り違えている。人々の政治的関心が高いから、対立が激しくなって政治が混乱したのではなくて、政治が混乱しているから、人々の政治的関心が高いのだ。」という反論だ。一応、理屈はわかっているらしい。確かに、相関関係はそのまま因果関係ではない。説明変数と被説明変数を取り違えてはいけない。そんなことは私も知っている。それなら、政治的関心が高まることが、問題解決に結び着くのであれば、政治的関心の高い国では、問題が解決していなければならないだろう。だが、政治的関心が高まった結果、問題が解決するということは稀だ。反対に、政治的関心が高まって、政治が混乱し、その結果、民主主義が崩壊したという大変有名な例がある。ドイツにおけるヒトラーの台頭である。
良く知られているように、ワイマール憲法は、当時としては極めて民衆主義的な憲法であり、広く国民が選挙に参加していた。この憲法の下で、ヒトラーは政権に着いた。つまり、投票民主制によって合法的に政権を得た。細部において本当に合法的であったかどうかまでは知らないけど、とりあえず、表面的にはそうなる。これは、民主主義の自己崩壊の顕著な例である。まあ、彼が首相になった時は、ナチは比較第一党で、過半数の議席を持っていたわけではなかった。対立の激化を恐れて、彼を懐柔するために、当時の大統領ヒトラーを首相にした。この、保守派の事なかれ主義と見通しの甘さが、結果的にヒトラーの独裁を招いたという見方も出きるかもしれないが、最終的には、彼の独裁をほとんどの(正確に言えば投票したドイツ人のほとんど)のドイツ人が支持した。考えなければならないのは、全部ではないにしても、少なくない人数のドイツ国民がヒトラーに熱狂して、彼を支持したという事実の背景である。これについては、多くの解説があって、それらの解説を読むと、私には、納得できるところと納得できないところがある。納得できないところがあれば、自分で調べてみるしかないだろう。基礎的な知識がないから、細かいところに入り込むと、間違いだらけになりそうだから、とりあえず、知っていることと、ネットで調べて分かったことだけを使って、ざっくりと考えてみる。
第2次産業革命は、1860年代後半以後とされていて、普仏戦争にプロイセンが勝って、ドイツ帝国が出来上がるのが1871年だ。これによって、第一次産業革命に後れを取ったドイツも、第二次産業革命には間に合った。第一次産業革命が織物のような軽工業であったのに対して、第二次産業革命は、重工業、化学工業のような、重厚長大型の産業が中心である。現在のドイツの産業が重工業、化学工業で特徴づけられるのはそのためだろう。ドイツ帝国の成立後、鉄血総裁ビスマルクのもとで、工業化、近代化されたドイツは強国となる。これには、普仏戦争のよってフランスから得た賠償金も役立ったのだろう。また、なまじ、ある程度の工業設備を持つイギリスよりも、新しい技術設備の展開という意味では、ドイツの方が有利だったためかもしれない。封建的なギルド体制(職人文化)が残っていたことも、重工業、化学工業の立ち上げには有利に働いたかもしれない。瞬く間に、世界第2の工業国となったドイツは、第一次世界大戦(1914~1918)に突入する。何故、突入したのかは知らない。多分、それまで、ヨーロッパの国の間で外交的に微妙なバランスをとっていたビスマルクが、皇帝と対立して政治の場から離れたからだと思う。何故、ドイツが第一次世界大戦に負けたのはかも、わからないけれど、第一次世界大戦は、それまでにないような、国民を巻き込んだ長く続く大きな戦争だから、軍事力だけでなく、経済を含めた双方の生産力の総力戦になって、当時すでに、世界第一の生産力となっていたアメリカが連合国側に加わったからだと思う(無茶苦茶ざっくりしているけれど。)。
いずれにしても、ドイツは第一次世界大戦に敗れ、ベルサイユ条約(1919)により、巨額の賠償金の支払いを課せられた。ちなみに、ドイツがこの賠償金の支払いを終えたのは、なんと2010年のことである。高い賠償金支払いのために、ドイツは経済が衰退し、ハイパーインフレになる。何とかこれを克服すると、そのタイミングで世界恐慌(1929-1933)がおこって、ドイツはまたも不況になる。1928年の選挙で3%以下であったナチス党の得票率は、1932年には37.4%となり、ナチスは比較第一党になる。大統領であったヒンデンブルグは、1933年にヒトラーを首相に指名した。ヒトラーとナチスの台頭の背景には、不況とそれに対する人々の不満があったのだということは、おそらく間違いではないだろう。政権を取ったヒトラーは、アウトバーンの建設などの経済政策を推進した。公共事業を起こして雇用を作り出すという不況対策は、アメリカでルーズベルトが行ったニューディール政策のテネシー川流域開発公社(TVA)の設立など似たような内容の政策なのだが、ニューディール政策の効果が今イチだったのに比べると、アウトバーン建設はかなり効果が高く、自動車などの需要を拡大して経済を刺激した。それによってドイツは経済回復をなし遂げて失業者をなくした。どうして経済政策がうまくいったのかも、私にはよくわからない。ベルサイユ条約による賠償金の支払いを拒否して、その資金を公共政策に回したからかもしれない。軍需産業の生産を拡大したことも、景気の回復に大きな効果を持ったのかもしれない。ヒトラーが経済に詳しかったとは思えないから、誰か優秀な経済官僚がいて、アウトバーン建設を提案して、優れた経済政策を実施したのかもしれない。たまたま、運が良かったということもありそうだ。ベンツ(1844―1929)が 自動車を実用化したのは1879だが、そのころの自動車の性能はまだ低かった。ガソリンの質が良くなると、エンジンの性能が向上する。内燃機関とはそういうものだ。高オクタン価ガソリンを製造するプロセスの一つである接触分解法が工業化されたのが1930年。アルキレートガソリンを作る最初のアルキレーション装置が建設されたのが1939年である。この間、自動車の性能と実用性は飛躍的に向上した。当然需要は高まっただろう。1933年、ヒトラーはベルリンモーターショーの開会宣言で、モータリゼーションを加速することが国家の防衛力を高めることになると説いた。ヒトラーは自動車産業を支援した。ダイムラーとベンツが合併して、今のメルセデス・ベンツにあたる会社が出来たのは1926年なのだが、1935年にヒトラーが再軍備を宣言すると、その会社が、戦闘機のエンジンや軍車両の生産を担った。よくわからないままにバットを思い切り振りまわしたら、ボールが当たってホームランというような話かもしれない。いずれにしても、これは彼の成功だ。人々がヒトラーを信用する根拠にはなっただろう。これが経済的背景だ
しかし、雇用が回復して喜ぶのは、中産階級、それも、どちらかと言えば底辺の人たちだろう。人口におけるその割合を考えると、まだ不十分のような気がする。それだけで、彼への絶対的な服従までを、人々が受け入れるとは思えない。何かもっと、人々を急き立てる、不安とか恐怖のようなものも必要だろう。そこで出てくるのが。例のアーリア=ゲルマン人至上主義に基づくユダヤ人差別というやつなのだが、不景気が続けば、金融業が恨まれるのが世の常で、金融業が多かったユダヤ人が恨まれるということなのかもかもしれないが、ユダヤ人だって金貸しばかりではないから、ユダヤ人全体に広げるのは無理がある。国策企業とも言えそうなダイムラー社を作ったのはユダヤ人だ。メルセデス・ベンツという車の商標名のメルセデスは、その人の娘の名前だ(写真を見たけれど、外見的には普通の白人に見える。)。何か変な感じがする。
ユダヤ人差別はその前からヨーロッパ全体にあったから、ヨーロッパにおける、ユダヤ人差別の歴史から確認しておく。
イエスの死後、弟子たちが、中近東やローマにキリスト教を普及していった。ユダヤ教の方は、その前、ローマがユダヤの地を植民地化した時から、ローマに侵入している。まあ、ローマにキリスト教が普及されるのに並行して、ユダヤ教もローマ帝国内に広がったと考えてよいだろう。多分、キリスト死んで、キリスト教やユダヤ教がローマに普及されて。100年か200年くらいは、キリスト教もユダヤ教もその取扱いに大した違いがなかったのだと思う。キリスト教であろうがユダヤ教であろうが、ローマ帝国内ではともに邪教なのだがマイナーな文化でどうでもよかった。まあーちょっと突いて、いじめてみる程度の迫害はにあっただろうが、本質的にはどうでもよい問題だった。ところが、キリスト教やユダヤ教の信者の数が増えていくと、そうもいかなくなる。ローマ帝国という、皇帝が支配する国で、宗教的な権威が強い力を持つのは、困ったもんだろう。有名なのは皇帝ネロ(在位56-68)で、ローマの大火の原因はキリスト教徒だとして、キリスト教徒を捕まえて虐殺した。組織的だったのは、皇帝ディオクレティアヌス(284-305)で、303年に勅令を出してキリスト教を取り締まる。この当時、ユダヤ教もいたのだろうけれど、ユダヤ教もキリスト教も同様に迫害される側だから、両者の間に反目はないはずだ。今でもそうだけれども、一人二人の時は異民族がいても、あまり気にしないが、異民族が集団化してくると、不気味で、迷惑な存在となって、陰気くさく、ノッタラ、ノッタラしたメロディーで、賛美歌を歌ったりして、何か良くわからないことをやっている連中は、かなり気味が悪かっただろう。キリストの血だと言って、赤葡萄酒を飲むのも不気味だ。これが、キリスト教徒が増えてきて、非キリスト教徒と、キリスト教徒の比が逆転すると、立場が違ってくる。313年には、ミラノの勅令により、キリスト教が公認され、392年、テオドシウス1世は、キリスト教を国教化し他の宗教を禁止する。この辺りから、キリスト教とユダヤ教のヨーロッパにおける立場の違いができる。何しろ、キリスト教は国家の宗教だが、ユダヤ教は邪教なのだ。生活感としては、キリスト教は、自分たちの宗教で内容が分かっている。ユダヤ教は、よくわからないけど、陰気な顔して、ぼそぼそ、暗いところで何かをしている、気味の悪い連中ということになる。キリスト教がメジャー化して、ユダヤ教がマイナーにとどまったことについて、どうしてかという議論もありそうだ。多分、イエスに罪を引き受けてもらうほうが楽だったからだと思う。パウロの布教活動がうまかったというのもありそうだ。彼は元ユダヤ教徒だから、民族(少数者)に内側のこもってしまう宗教の弱点を知っていたのだと思う。罪を犯さざるを得ない人間として、イエスにすがり、イエスとの契約を守るという考え方は、罪びとの多い実際の社会に開かれている。確かにうまい。ユダヤ教は民族宗教的な色彩が強く、ヤハベの神との契約を厳格に守らなければならないというのも、ユダヤ教が不利だった理由だろう。ユダヤ教差別ではなくて、ユダヤ人差別という意味では、古代ローマの時代から、ユダヤ人差別はあっただろう。多分それは、宗教差別というよりは、単なる民族同士のいさかいのようなもので、ローマ帝国が彼らの生息地を植民地化したときに、その差別が始まっている。しかし、キリスト教がローマの国教化およびそれ以後では、キリスト教対ユダヤ教という宗教対立になる。大筋はそうなのだが、その途中でも、ユダヤ人にしてみれば、ユダヤ戦争(66-73)で、ローマ軍に敗れて、エルサレムの神殿が焼かれたとき(70)に反乱軍に加わらなかったキリスト教徒は、敵ということになるかもしれない。一方、キリスト教側からは、国教化のころから、ユダヤ人を「キリスト殺し」として、攻撃するということが行われるようになる。この辺り、聖書の記述にもかなり問題があって、イエス・キリストを磔にするという判決を下したのは、ローマの総督だから、責任は総督にある。総督が死んじゃって責任を問えないとすれば、組織としての責任はローマ帝国にあると考えるべきだろう。現に、ユダヤ教の指導者たちは、冒涜罪ではさばけないと判断しているのだから、事実関係としてユダヤの宗教指導者たちによる宗教裁判の話は、聖書に不要だろう。その時、その周りで騒いでいたのがユダヤ人だから、ユダヤ人全体に責任があると言い出したら、もはや、裁判員裁判はできない。しかし、この主張は中世を通じて、ヨーロッパ全体のキリスト教徒に広がっていく。その後、ローマ帝国が分裂し、西ローマ帝国は5世紀の終わりに消滅する。そこからが、中世で、封建制度になる。封建制度は世代を超えた一種の契約制度で、領主と呼ばれる人たちが、土地の所有権を持っていて、農民はその土地を耕す。彼らは支配階級で、彼らは土地の租税徴収権を持っていて、農民は収穫物の一部を領主に差し出す。領主の多くは、騎士で、国王の下で敵と闘わなければならない。国王も直轄領をもっていて、直轄領に対しては領主である。協会や修道院も直轄領を持っていた。これらの契約はキリスト教に元づくから、農民はキリスト教徒であるが、ユダヤ教徒はキリスト教徒ではないから土地を持てない。やむなく、商工業、金融業をやって、収入を得ることになる。ユダヤ教徒の中には、成功して金持ちになる人も出てくる。こうなると、当然、領主、国王、教会、修道院はユダヤ教徒と関係を持つ、領内の収穫物を流通させて、金を作るには、ユダヤ人の協力が欠かせないからだ。だから、もちろん、身分の高い人(聖職者)の中には、ユダヤ人を虐殺から守ろうとした人もいた。たとえば、カール大帝(742-814)はフランク王国を作った。フランスやドイツの基盤はこのころにできている。彼は、ユダヤ教徒を保護した。カノッサの屈辱の、ハインリッヒ4世も、ユダヤ人を保護して、キリスト教徒に改宗したユダヤ人が、再びユダヤ人になることを許した。この時、ローマ教皇の指示に反してそれを行った。この人、カノッサで教皇に謝って屈辱を感じただけではなくて、結構、骨のある人だったのだ。しかし、一般レベルでのユダヤ人差別はさらに強くなる。このころ、ヨーロッパのほとんどの村にユダヤ人居住区ができていた。キリスト教徒の農民はユダヤ人との接触を避けた。多くの、ユダヤ人が、都市で暮らすようになったが、その中には資本家のようになって、王侯貴族に金を貸した。それらの金がなければ、十字軍の遠征も行えなかった。よくある話なのだが、上層階級では、お互いの利益のために融和し、下層階級の人が反目しあうという構造なのだろう。私はそういう話が悲しい。中世を通して、農業の生産力は上がっていく。特に、農業革命は生産力を向上させ、余剰生産が生まれ、これを取引する商業が発達する。そうなると金融業もさらに必要になり、一部のユダヤ人の地位は上がった。つまり、ユダヤ人の社会にも階層構造ができていたのだと思う。江戸時代の士農工商と同じで、制度上の身分では、農民であるキリスト教徒のほうが上でも、実際の経済力は、商工業者、あるいは金融業者であるユダヤ人の方が豊かということが起こっただろう。これがさらに、庶民層のキリスト教徒のユダヤ人に対しる反発、あるいは、不正なことをして金儲けをしているという。猜疑心につながる。中世の終わりごろは、そんな状態だっただろう。いずれにしても、ユダヤ人差別は、ドイツ以外にも西洋社会全体に存在した。中世が終わり近代となると、専制的な封建制から解放されて、ヨーロッパ各国に国民国家が誕生する。当然、国民たるユダヤ人にも国民として平等の権利が与えられなければならない。そういうことで、ユダヤ人にも市民権が与えられていくのだが、それは、市民社会の中で経済的に底辺に位置した人たちの反発を招き、市民的なレベルでの反ユダヤ意識は強くなったかもしれない。近代になっても、反ユダヤ人感情は、ヨーロッパに広く存在した。
これが、宗教対立ではなくて人種差別につながっていく過程が問題なのだが、人種というのは生物学的概念だから、当時の生物学の様子を確認しておく。
ダーウイン(1809-1882)がビーグル号に乗って航海したのは1831-1836年で、「種の起源」の初版の出版は1859年だ。「進化論」すなわち生物の種というものは時間とともに変化するという考え方を主張したのはダーウィンが最初ではない。ダーウィン自身は、彼の著書の中で、要不要説を唱えたラマルク(1744-1829)が、生物の種が時間的に変化すると考えた最初の人だと書いている。ラマルクがその著書「動物哲学」を出版したのは1809年である。くしくもダーウィンが生まれた年である。ラマルク以外にも、種が時間とともに変わるという、進化論的な考え方をした人はいたのだと思うが、それを調べるのは大変でかなりの知識量が必要だ。そこで、進化論的な発想が出来そうだったのに、そうしなかった人の方を考えてみる。私が思いついたのは、リンネ(1707-1778)だ。
リンネは、簡単に言えば、現在の生物分類学の基礎を作った人だ。生物の分類は中学か高校の理科で習ったかもしれないが、忘れてしまっただろう。水産屋だから魚類分類は習った。そのあたりの知識を引っ張り出して、これもまたざっくりと説明しておく。例えば、命名法の約束(命名法)に従って、ヒトという種を正式に表すと、Homo sapiens Linnaeus 1758となる。前の2つの単語をイタリック体で書いたのは、この名前がラテン語だということを表している。Homoが属名で、sapiensが種名。種は分類学の最小単位で、Linnaeusはこの種に名前を付けた人の名前で、リンネを表している。最後の数字はその種の名前が命名された年(西暦年号)だ。ヒトにHomo sapiensという名前を付けたのはリンネだ。種名を正式に書くときは、命名者と命名年まで書くが、面倒な時は、生物の種は、属名と種名だけで表して、種を区別する。このやり方を2名法と言う。次のこの表記の仕方を作ったのがリンネだ。ちなみにHomoの意味は人で、sapiensの意味は、「分別がある、賢い」の意味。あなたたちも、分別を持って賢く生きてくださいね(蛇足)。普通は、この2名法で間に合うのだが、種が確定した後に、それとよく似た亜種が発見されてしまったりする。ヒトの場合も、1997年にエチオピアで、Homo sapiensによく似たヒトの頭骨が3つ発見されちゃって、この人類はすでに絶滅しているのだけれど、Homo sapiensの直接の祖先集団だと思われて、これに、idaltuという亜種名を付けちゃった。だから、これらを区別する場合は、それぞれHomo sapiens sapiens、Homo sapiens idaltuと、亜種名まで書く。ちなみに、idaltuは、元々、現地の言葉で年長者の意味だ。それでも、イタリックでラテン語風に書く。これは、リンネのころの学問は、当時の共通語であったラテン語で書くことが正式で、学名が国際共通語だということを強調している。そこまでは命名法の話なのだが、リンネが作った生物分類では、種species の上が属genus、そこから上は、科family、目order, 綱 class、門Phylum、界kingdom、ドメイン domainという階層構造の中に個々の種が位置付けられる。ヒトは、ドメイン:真核生物、界:動物界、門:脊椎動物門、綱:哺乳綱、目:サル目、科:ヒト科、属:ヒト属(Homo)、種:ヒト(sapiens)となる。リンネのころは、ドメインというのはなかったし、リンネが対象としたのは、動物と植物で、細菌や原生生物は入っていないから、生物の界は、動物界と植物界の2界しかなかった(正しくは、動物界、植物界、鉱界の3界説)。でも、きちんとした階層構造で、一点から出発する枝分かれ構造になっている。今、私たちがその枝分かれ構造を見ると、それを時間的な変化のようにとらえて、一つの生物から出発し、多様な生物が出来ていったような、進化的なプロセスを暗示しているように見える。というか、小学生でもそう思うだろう。それが進化論だ。だが、リンネはそこまで構造的に生物界を描いていながら、進化論にたどり着かなかった。だから、現代日本人ならば、「リンネって馬鹿なんジャナイ。」と思う。それはリンネに気の毒だ。リンネは植物学だけでなく、医学の教授にもなっているほどの、万学に優れた大学者だし、観察力に優れていて、機能と構造を関連付けたり、異なる形態の間につなぐ共通性に気が付くという感性も持っていた。一方でリンネは敬虔なクリスチャンだった。父親はキリスト教の聖職者で、リンネ自身も幼いころは聖職者になることを期待されていた。リンネがその生物分類体系を描いたとき、それを見て、それが1点から始まり広がっていく時間的変化だと気が付いたと思う。それに気が付かないほどの馬鹿ではないだろう。多分その時、まずいことになったぞと思ったはずだ。それは、聖書の根本の思想、神が種を含めて世界のすべてを作ったという、創造説を否定してしまうからだ。創造説を否定してしまえば、キリスト教だって、ユダヤ教だって、イスラム教だって、一瞬にして一神教のすべてが否定される。彼は、何が正しいのかという本質論の股裂きになってしまう。だから、現状の生物界が、事実としてこのように記述できるという分析にとどめて、そこから類推される進化論には踏み込まなかったのだと思う。何しろ学長まで務めた人だから、そういう政治判断も優れていただろう。
リンネがまだか活躍していた時代に生まれてきたのが、ラマルク(1744-1829)で、生物が時間的に変化するという説(進化論)を唱える。同時代に生まれて生物の形態を研究していたのが、ゲーテ(1749-1832)とキュヴィエ(1776-1832)だ。ゲーテの方は文学者として有名だが、生物学を学ぶ者の間ではキュヴィエも有名だ。生物学に詳しくない人のために、キュヴィエから説明する。リンネと同じような、比較形態学の研究者(というか当時の生物学は形態を比較する以外の研究手法がほとんどない。)で、水産屋的には、ナマコが敵に襲われたときに吐き出す腸のような蜘蛛の糸のような器官(キュヴィエ器官)を発見した人だと思っていたが、調べてみたら、これは間違い(水産屋としてはかなりひどい間違い。水産学やめた方が良い。)。キュヴィエ器官は、エラまたは直腸から形態的に進化した器官らしい。多分、キュヴィエが発見したのではなくて、比較形態学という手法を作ったキュヴェを、リスペクトして、献名しているのだと思う。とにかく物凄い量の形態学的な業績を上げている。投稿論文数や引用数が研究者の評価基準となっている今の時代でも、十分、研究やとして生きていける。だが、もちろん、論文数など、研究者の評価基準になりえない。彼がすごいところは、実証主義的な研究手法を確立したことだ。何かの原理や原則から演繹的に理論を作るのではなくて、実際の形態を観察して、その経験を積み上げて、何かを述べるという態度に徹していた。実証主義というのは、当時としては、かなり新しい考え方なのだ。
キュヴィエはラマルクの進化論を否定した。ラマルクがキュヴィエの実証主義的考え方を批判したのかもしれない。よくわからない。実証主義以前の科学者は、神が作った世界には何か統一的な真理の様なものがあって、科学者の興味はそれを明らかにすることだと思っていた(自然哲学)。ラマルクはそのような考え方だから、羅列的に世界を実証的に描くというキュヴィエの方法論を批判したのだと思う。進化論という視点から見ると、ラマルクの方が現代の生物学に近いのだが、自然哲学と実証主義的科学論という対立でとらえると、キュヴィエの方が現代的ということになる。ラマルクは進化が起こるメカニズムを、獲得形質の遺伝と要不要の説で説明した。獲得形質の遺伝を実証的に支持する事実はない。例えば、動物の手を切断しても、その子供の手は短くならない。つまり、キュビエはラマルクの進化論全体を実証主義的な立場から否定したのだと思う。科学の進め方としては、キュヴィエの方が、現代科学の方法論に近い。ラマルクが余計なことは言わずに、その仕組みはよくわからないけれど、とにかく種というものは、時間とともに変化すると主張していたら、ラマルクの「進化論」は、受け入れられていたのかもしれない。
ゲーテもラマルクやキュヴィエと同時代の生物学者だ。ゲーテというのはあのゲーテで、「若きウェルテルの悩み」とか「ファウスト」を書いた人だ。もっとわかりやすく言えばあのシューベルトやヴェルナーのメロディーで知られる「野ばら」の歌詞を書いた人だ。文学者として大変高名だが、生物学を学ぶ者にとっては、ゲーテは「原型」という考え方を最初に提唱した人だ。原型というのは比較形態学と分類学や進化論を結び付ける重要な概念で、比較形態学的に種ごとの形態の違いに着目するのではなくて、その共通性に着目する。その結果、ある共通する形態から派生的にそれぞれの種の形態が出来上がってきたように見える。その共通するもとの形態のことである。現在だって、分子生物学的に近縁関係や種や属の関係を論ずるときは、共通遺伝子に着目する。これは、ほとんど進化論だと言っても良い。私は、ゲーテは進化という発想を持ったと思う。ゲーテが何故、進化論を唱えなかったのかという問題は、大変難しい問題だ。ゲーテが自然哲学的な考え方をしていたからだという説をどこかで読んだような気がするが、ラマルクは自然哲学的な考え方で進化論に到達しているから、この説明は的外れだ。他にこの問題を研究した人がいるのかどうかは知らない。自分でやるには、ゲーテの考え方を理解する必要がある。ドイツ語は習ったことはあるが、読んだり書いたりすることはできない。ということで、例によって勝手な推論をする。私は、ゲーテは、リンネのように実証主義に徹していたからではないかと思う。実証主義は、事実の基づく推論だから、何か進化の過程を示す事実を見つけてこなければならないが、進化は長い時間をかけた変化だから、それを直接観察することはできない。化石標本などで、連続的な変化を追うしかないが、そんなに都合よく化石は出てこないだろう。世代時間の短い生物を異なる2つの環境下で継代的に飼育してその変化を見るという方法もありそうだが、或るグループを何代にもわたって継代的に飼育するという技術は、実はかなり難しい。そうした実証的なデータがない以上、科学者として進化論を主張しないというのは、科学的に正しい態度だ。彼は「生物が目的のために作り出され、その形態はある根源的力により意図的に決定されたという物の見方は、我々の進歩を何世紀にもわたり阻んでいる」と書いている。つまり、創造論を否定しているのだ。だが、「この物の見方は、それ自体信心深く、ある種の心持の人々には快く、ある種の観念には必要欠くべからざるものであるかもしれない。わたしもそれを全面的に否定することを得策だとも可能だとも思わない。」とも書いている。ということは、創造論は、科学的にはろくでもない代物で、科学の発展を妨げているのだが、それを信じているやつらがいることも事実で、そいつらがそれを信じることはどうしようもないし、それを否定することが可能だとも思わないから、放っておくということだろう。全然、自然哲学的ではない。「なんだ、知ってたんじゃないか。」というのが、私の理解である。「若きウェルテルの悩み」は自伝的な小説だから、若い時のゲーテはやたらと悩む人だったかもしれないが、大人になったゲーテはもう悩まなくなっていて、人は適当に自分の信じる神を信じればよい。創造論でも進化論でも、どちらも実証的根拠がないから、そんな議論には意味がないと思ったのかもしれない。ゲーテは賢く議論を避けたが、当時の科学者にとって、これは悩ましい問題だったのかもしれない。
それまでの生物学は、主として記述的な方法によって進められてきた。実験というのは、実証的に相手を説得するには強力な手段だ。実験して実際にそうなったという、説明の仕方には説得力がある。実験的に証明された説を否定するには、再実験すれば良いからだ。実験という説得手段は、かなり前からあった。時間をさかのぼることになるが、ガリレオ(1564-1642)はピサの斜塔から重さの違う何かを落として、重さが違っても、同時に落ちるということを証明したとされている。本当かどうか知らない。ガリレオがピサの斜塔から何を落としたのか知らないけれど、ピサの斜塔から物を落とした人は、他にもいるらしい。ということは、実験という事象主義的な説得の仕方は、古くからあったのだろう。それはそれとして、彼はほかにも物理現象の説明に実験的手法を使っている。ガリレオは物理学と数学を使って、地動説が正しいと結論したのだと思うが、そのために、1616年と1633年に、異端審問所審査にかけられて、2回目の審査で有罪とされ、終身刑になっている。その時、「それでも地球は回っている。」と言ったとされているが、これは多分嘘だ。そんなことを、言ったらとたんに処刑される。ジョルダーノ・ブルーノ(1548-1600年)は、地球を中心とする天動説を否定して、「宇宙に中心なんかない。」と言ったが。それで火炙りになった(1600年)。その時、ガリレオは、36歳だから当然それを知っている。ガリレオだって、多分、熱いのは嫌だから、そんなこと言わなかっただろう。異端審査というのはその宗教内部の問題だから、異教徒だったら問題なかったのかもしれない。ブルーノは修道僧だったから、異端審査的にはかなりまずい。ガリレオは名前が良くない。ガリレオ・ガリレイという名前は、多分、ガリラヤの人(イエスとその弟子たち)という意味だと思う(根拠のない適当な推論)。イエスの弟子に、地動説を唱えられては、キリスト教の坊主どもは、たまらないだろう。私ならば、名前を変えて、キリスト教徒ではないと言って、地動説を声高にとなえたと思う。ガリレオは自説を撤回して、口を閉ざしてキリスト教徒のままでいた。ブルーノに比べてガリレオは不潔だということは可能だが、誰だって、熱いのは嫌だ。そうかといって、異教徒に改宗するのは生活を困難にするだろう。腰抜けなのは、カトリック教会の方だ、1979年になり、ヨハネ・パウロ2世は、当時の宗教裁判を不当として、ガリレオとブルーノの宗教者としての名誉を回復する。恥の上塗りだ。頑張って、世界を神が作ったと言い続けろ。自説を曲げるのであれば、どこで間違ったかを明らかにしろ。この、いい加減野郎たちめ。
いずれにしても、ガリレオの時代(17世紀)でもすでに、実験的証明という、実証主義的なやり方はあって、物理学者たちはこの方法を使っていた。当時は、カトリック教会の力が強くて、彼らの信じる世界観に反する意見を弾圧していた。したがって、一般的庶民は、実証主義的なロジックの有効性を解っていなかっただろう。科学者も錬金術師も似たようなものだと思っていただろうから、実験的証明に納得しなかったのかもしれない。ちなみに、ニュートン(1642-1727)は、ガリレオが死んだ年に生まれた。ニュートン力学や万有引力の法則等々、物理学や数学の発展によって、次第に地動説の正しさが認識されるようになる。他の分野でも科学的な方法の有効性が理解されてくる。科学とは基本的に帰納法的認識論(経験的な事実の積み重ねによって、真理に接近するやり方)の上に成り立っているから。本質論的な議論から、実証主義的な議論の仕方が優勢になっていく。そのような流れの中で、科学者の間では、実証主義的なやり方が一般化していき、生物学も実証主義的になって、リンネのような広範で詳細な記述による生物学が18世紀には出来ていったのだと思う。
生物学の方で、ダーウィンの時代を生きた人として思いつくのは、ヨハネス・ペーター・ミュラー(1801-1858年)だ。水産屋がミュラーの名前を聞くと、ミュラー・ガーゼ(・プランクトンネットの生地)を作った人だと思ってしまう。確かに彼は、プランクトン学の開祖のような人で、間違ってはいないけれど、まったく不十分だ。ベルリン大学の教授でもっと多くの仕事をしている。有名なのは、発生的には雌の生殖器官の一部となるミュラー菅を発見したことだ。ついでに扁形動物の幼生、ミュラー幼生も発見している。いろいろなことができる大学者なのだが、実験生物学を発展させた人の一人でもある。やたらに小さな物を見るのが好きだったらしい。多分、このころまでに、顕微鏡の解像度や拡大倍率が向上してきて、顕微鏡観察で多くのことが発見されてきて、生物の微細構造の観察が有効な研究方法になってきたからだと思う。最初に細胞説を唱えたのはマティアス・ヤーコブ・シュライデン(1804-1881)とテオドール・シュワン(1810-1882)とされていて、それぞれ、植物と(1838)、動物(1839)について細胞説を発表している。シュライデンはフンベルト大学ベルリンでミュラーに学んだ。細胞の発見については、ロバート・フック(1635-1703)が細胞を発見したということになっているのだが、彼が観察したのは、コルクの薄片で、細胞ではなくて、植物の細胞を囲っている細胞壁だから、細胞の抜け殻を観察したのだ。ロバート・フックは細胞の中の原形質の流動の様なものも観察していたらしいが、本当かどうかはわからない。当時の顕微鏡の解像度では細胞の中の構造を詳しく観察することは出来なかったと思う。17世紀から19世紀の間に、顕微鏡の分解能は飛躍的に向上したのだ。ローバート・フックと同時代の人で、顕微鏡というと、同じフックでもレーヴェンフック(アントニー・ファン・レイヴェンフック)を思い出してしまうのだが。レーヴェンフックの方は、科学教育を受けた人ではなくて、商人だけれど、かなり職人的な技術に優れた人で、当時としては、考えられないほどの高倍率の顕微鏡を作って、いろいろな微生物を観察してレポートを書いており、微生物学の父とされている。顕微鏡でコルクの切片を観察した方がロバート・フックで、彼の科学的な貢献としては、フックの法則(弾性の法則:バネの伸びは加重に比例する)の方が有名だと思う。フックは当時ニュートンのライバルだったらしく、ニュートンとやりあっている。確かにニュートンは、運動力学を完成した歴史上めったに出現しない大学者だが、ロバートフックだって、天文学や物理学から生物学まで、幅広く研究した大学者だ。ニュートンという偉大な才能の陰に隠れてしまって、ちょっと気の毒だ。進化論の初期の提唱者の一人でもあるらしい。
種の起源の初版が出版された年(1859年)には、リンネの分類学やゲーテの原型、細胞説も広く生物学者に受け入れられていたのだと思う。実証主義的な考え方が広く受け入れられてきていたと思う。「種の起源」は、初版の時にすでに大評判になって様々な人が読んで、またさまざまな人から批判された。それらの批判に対して、当時の科学で、実証主義的に反論することは難しかったが、ダーウィンの賢いところというかえらいところは、種というものは時間的に変化しているのだということを、実証主義的に主張しているだけで、どのような方向で変化しているとか、どんなメカニズムでそれが起こるかということについて、述べなかったことだ。どうしてかはわからないけれど、多分、偶然的に、種の中に何らかの変異が起きて、それが、その種がいる環境に適応していれば(自然選択)、その変異が固定されていき(適者生存)、それが繰り返されることによって、新しい種が生まれると主張した。ラマルクのように、進化のメカニズムについて、実証主義的に証明できない余計な説明をしなかったところがうまい。
種の起源は何回も加筆修正されて出版されて、最後の第6版の出版は、1872年だ。ロベルト・コッホ(1843-1910)は、1876年に、炭疽菌の純粋培養に成功し、炭疽の病原体であることを証明した。彼はコッホの3原則を提唱し、病原性の証明を方法論的に確立した。また、1882年には結核菌を発見した。ダーウィンの種の起源の発表の前後で、実証主義的な研究方法が充実してきて、疾病という人間の直接かかわりがある深刻な問題についても、科学の有効性が広く認識されるようになる。決定的だったのはメンデルの法則の再発見(1900年)である。メンデル(1822-1884)自身は1866年に、メンデルの法則の論文を発表している。メンデルの論文を引用した研究者は19世紀にもいたのだが、その重要性に3人の研究者がほぼ同時に気が付いて、メンデルの法則を引用して論文を書いたのが1900年のことで、これをメンデルの法則の再発見という。1902年には、ウォルター・サットン(1877-1816)によって、染色体の動きがメンデルの法則にしたがうことが報告され、遺伝子の実体が染色体であるという染色体説が唱えられる。正確には遺伝子の実体は染色体ではないが、これによって、遺伝という現象が視覚化してとらえられるようになり、遺伝子が実在することが証明されたことになる。顕微鏡の発達とともに、染色法も発達し、細胞内器官の観察も可能になっていたのだろう。このことも、ダーウィンの進化論の一般的な普及を助けることになったであろう。ダーウィンの進化論の定着とともに、それによる副産物も生まれた。優生学もその一つだ。優生学的な発想はもっと古くからあるが、遺伝的研究をバックグラウンドにした、近代的な優生学を最初に唱えたのは、フランシス・ゴルトン(1822-1911)だ。彼は、ダーウィンのいとこで、ダーウィンの種の起源に刺激を受けて遺伝の研究をしたと言っているから、優生学的な発想が生まれた責任がダーウィンにあると言えないこともないが、ダーウィン自身は人間の育種など提案していないから、人種差別の責任をダーウィンに押し付けるのは無理があるだろう。ゴルトンは、集団の中に優秀な遺伝子を残そうとする積極的優勢学と、集団の中から悪性の遺伝子を排除しようとする消極的優生学を提案しているが、彼の関心は、天才と呼ばれるような特別な能力を持った人の家系にあったようだ。彼の主張は、人の関心を引き付けて、優生学は、当時、欧米社会で人気のある学問となった。特に当時の政治家の関心は高かった。1907年アメリカで断種法が施行されると、世界各国で、同様の法律が制定された。特に消極的な優生保護法が、各国で、積極的に制定されたということは、その意味を考えたほうが良いだろう。この発想は排除するという発想で、なぜ排除するかというと、社会が遺伝的に汚染されるからだ。この、社会が何かに汚染されるのを防ぐという発想は、政治家にとって、魅力的な発想らしい。何かに汚染されることを、未然に防いだと言われたい。あるいは防げなかったと非難されたくない。そういう心理が働くのだろう。そうでなくても、犯罪でも、暴動でも、あるいは災害でも、何かを事前に排除するというのは政治の仕事だ。しかし、社会全体があっという間に何かの遺伝子に完全に汚染されてしまうことなど、考えられないだろう。むしろこれは、実際の危険というよりは、わからないものに対する心理的不安で、心理状態としては、感染症に対する不安に似ている。多分、恐ろしかった感染症に対する不安が、細菌学のような科学の応用によって、解決されつつあるということが、遺伝子汚染に対する恐怖感の解決として、優生学という「科学」に対する期待ができたのであろう。実際、感染症に対する不安の場合、人はかなりパニックに陥って、冷静な判断力を失う。感染者を閉じこめて、火をつけたりした。そのことは、我々もつい最近のコロナのパンデミックで味わった。まだ、その必要のない段階でも、完全ロックアウトをなぜしないのかと叫ぶ人たちが少なからずいた。また、中国では、実際、それに近いロックアウトが行われていた。そのために死んだ人も、多分、いただろう。とにかく、身の安全のためならば、強く排除を叫ぶというのは、われわれ人間の習性だろう。
ノーベル賞の最初の授賞式は1901年である。実証主義などの科学的な考え方に対する理解はともかくも、このころから、科学に対する一般の人々の関心が高まって行ったと考えられる。コッホは1902年にノーベル賞を受賞した。さすがに、カトリック教会も、感染症は神の怒りではないことを示した研究者を、火炙りにはできなくなっていた。
ヒトラーが生まれたのは1889年である。ヒトラーが育った当時の時代背景がこの長い話からわかるだろう。遺伝や進化という現象について、正確な理解はともかくも、その現象の存在について人々の関心は高まっていったであろう。広く様々な分野で科学の成果があげられて、それによって人々の生活が改善されていった。また、人々の生活も変わって行く。特に、産業の発展によって都市部への人口の集中していく中で、感染症に対する予防意識、衛生意識も変わって行っただろう。新しい科学的な知識がそれまでにないような速度で、一般に広がっていった。その知識は偏っていて未消化のものであったろう。そういう中で、遺伝的汚染という新たな恐怖も芽生えていたと思う。
次に、社会科学的に、人種という考え方が出てきた経緯を考える。
15世紀から17世紀の大航海時代が終わると、商人や役人など、冒険家ではない普通の人が、ヨーロッパから世界各地に出かけて仕事をして、さまざまな人種や民族に出会う。それまで、ヨーロッパンの人は黒人は知っていたけれど、その他の民族や人種には詳しくなかっただろう。アジア、アフリカ、南北アメリカに長期滞在した人は、当然、現地の言葉に詳しくなるので、異なる人々が使う言語の共通性や違いに気が付く。リンネに代表されるように、そのころの人の科学は膨大な収集と整理が主だから、言葉についても様々な言語を収集して、違いや共通性に基づいて、体系的に整理しようとした。これを比較言語学という。比較言語学は、ウイリアム・ジョーンズ(1746-1794)を嚆矢とする。ジョーンズは語学の才能にたけた人らしく、ラテン語・ギリシャ語以外に、ヘブライ語・ペルシャ語・アラビア語ができたらしい。インドに裁判官として赴任して、サンスクリット語を学んだらしい。サンスクリット語は古代語で、ヒンズー教の「リグヴェーダ」で使われている、インドの古代語だ。この言葉を学んだジョーンズは、1786年に、サンスクリット語が、古代ギリシャ語やラテン語と共通の期限を有している可能性があることを指摘した。これが、インドからヨーロッパにかけての言語が、共通祖語から発展分離したとする、インド・ヨーロッパ語族という考え方の、始まりである。これがきっかけとなって、言語の共通性についての研究(特に音声学的な研究)が盛んになり、ヤーコプ・グリム(1785-1863:グリム童話を編集したグリム兄弟の長兄)がグリムの法則(インド・ヨーロッパ語族の祖語からゲルマン祖語に移る過程での死因の変化の法則)を発表した。こうした研究成果を受けて、そもそも、インド・ヨーロッパ語族の祖語がどんな言葉かという議論が起こる。同時にこれは、ヨーロッパ文明のそもそもの起源に関する問いかけでもあった。世界の多様性を知ったヨーロッパ人にとっては、そもそも自分たちはどこからきて、どこへ行く中のかという、自我にかかわる問題でもあったのだろう。そういうところへ、フリードリッヒ・マック・ミュラー(1823-1900)が出てきて、古代インドに侵入し、ドアラヴィダ人と混交し、後にサンスクリット語となる言葉を話した人たち(アーリア人)の言葉が、インド・ヨーロッパ語族の祖語だとして、インド・ヨーロッパ語族に入る言葉を話す諸民族を、アーリア人と呼ぶべきだと主張する。インド・ヨーロッパ語族の祖語が、アーリア人の話した言葉であるという主張に、大した根拠はない。フリードリッヒ・マック・ミュラーは宗教学者でもあって、仏教にも造詣が深かった。仏教を持ち上げるつもりで、ヨーロッパの文化の今回にある高貴な仏教というイメージを作りたかったのかもしれない。彼は意図的に人種差別的な意識から、アーリア人仮説を述べたわけでもないと思う。エキゾチックで神秘的なアーリア人(高貴な人)と同根だという発想は、当時のヨーロッパの人々にとって、とても魅力的だったらしい。壮大な神話みたいな感じだろう。
キュヴィエより少し遅く生まれた社会学者のオーギュスト・コント(1798-1857)は実証主義を唱える。実証主義というのを簡単に要約してしまうと、経験的事実にもとづいて、理論とか仮説を検証するといやり方に徹するということだ。あらかじめ与えられた神学的・形而上学的な本質論を前提にしないで真理に迫ろうとする。認識論的に言えば、演繹法に対する帰納法になる。演繹法は一般的に正しいとされる原理(大前提)とその次の(小前提)を組み合わせて、結論を導く。大前提は一般的に正しいとされていること(あるいは、自分が正しいと思っていること)だから、例えば、「神様は完璧な存在で、神のなすことはすべて正しい」を大前提として、「その神様が世界を作った」を小前提として、「だから、世界は正しい方向に導かれている。」という風にロジックを組み立てる。たいていの日本人は無神論者あるいは仏教の様な多神論者だから、「演繹法って、アホジャン、正しい結論をミチビケナイジャン」と思ってしまう。これは有名な例なので取り上げたのだが、これを論破するにはどうするかというと、一般的には「だって現実の世界は、戦争とかあって、ちっともいい方向に行ってないジャン。だったら、神様、完璧じゃないか、神様が作っていないか、どっちかジャン。」とやる。この反論も、演繹的なのだ。こっちの方は、「戦争とかあって、世界が良い方向に行っていない」という、一般的認識を大前提にして、だったら、仮に神様が完璧ならば(大前提)、神様が完璧世界を作っていない(小前提の否定)か、その神様が世界を作っていれば(小前提)、その神様が完璧でない(大前提の否定)という構造になっている。どちらも、正しいと思う主観的認識を大前提にしていて、演繹的なのだ。帰納法では、対象物と自分は切り離されていて、自分が主観的に正しいと思うことを大前提にしない。というか大前提がない。帰納法でこの議論に決着を付けようとすると大変だ。まず、良い方向に歴史が進むということを定義しなければならない。仮説的に、何か良い方向の指標を作って、様々な歴史的事実を取り上げて、一つでもいいから、歴史的に良い方向に向かっていないという事例を反証として挙げることになる。歴史などというものは、記述した奴らの主観で書いているから、正しいかどうかわかりはしない。まあ、いつの時代でも、世界の状況に不満を持っている人がいて、戦争が絶えないから、一方的に良い方向に向かっていないと言えるのかもしれないが、それも私の主観に過ぎないだろう。この論争には決着がない。というか、帰納法を使った実証主義には、絶対に正しいという概念がないのだ。経験的認識だから、まだ経験されていない事実が出てきて、それが定説を否定する物であれば、定説が修正されるだけのことだ。つまり、帰納法では無限に真実に近づくことはできるが、真実には到達しない。科学的に考えるというときの、科学的は、経験主義的に考える(帰納法的に考える。)とほとんど同じ意味だ。だから、科学には「永遠の真実」などはない。今、定説とされている仮説があるだけなのだ。後に、カール・ポパー(1902-1994)は、反証可能性のないものは、科学の命題ではない(反証主義)と主張する。反証主義を神様の例で具体的に説明する。神様なんかいないということを、科学者が論じても問題ない。反証として神様を連れてきて、「コンチワ、私が神様です。ヨロシク。」と言わせれば、簡単に反証可能だからだ。反対に、神さまがあると、主張することは科学的に意味がない。「ないことの証明はない」からだ。犯罪捜査で言うと、神様がいないということを直接的に示す物証はない。しかし、神様が出てきて、「コンチワ、ヨロシクネ。」と言っていない以上、状況証拠的には、神様はいないというのが、現代の無神論者のロジックだ。
コントは社会学者だ。自然科学の場合は、だいたい、帰納法的に考えられるのだが、社会科学やビジネスの世界、特に、その時代の社会についての研究では、帰納法的にやっていたら日が暮れてしまう。だから、演繹的な議論がどうしても入ってくる。社会のことを実証的に研究しようと思うと、広範な事例を調べて、同じような条件であることがあった場合となかった場合を比較しなければならない。そんなことはいつでもできるわけでもないし、厳密に同じような条件下で、一方で何かが起こり、一方で何かが起こらないというような事例は、めったにないだろう。それを解決するには実験をすればよいのだが、これを社会実験という。実際の社会の中で、同じような条件の2つのグループあるいは2つの地域で、一方で何かをして、一方で何かをしないで、そのようなことをする前と後で変化を観察することになる。そんな実験を社会が許すことは稀だろう。内容によっては、倫理的に大問題だ。一方、演繹法で大前提を誤るととんでもないことになる(例:アジア的やさしさ:実証主義的であるべき新聞記者が、現地に行かずに自が信じる思い込みによって記事を書いて、それを信じた多くの人が死んだ。)。実証主義的に事実を確認することは欠かせないのだが、それがいつでも可能とは限らない。社会科学で、演繹的な議論をしなければならない場面は、少なからずあるだろう。それでも、コントは実証主義的に社会を研究すべきだと考えた。これは大変なことだ。社会科学者が実証主義を主張したことは、帰納法的な認識論、科学主義がかなりの広がりを持って社会に受け入れられつつあったことを意味するのだろう。
一般的に言って、20世紀以前に人種について何かを述べた人は、多かれ少なかれ偏見を持っていた。実証主義的であったリンネでさえ、人種については実証的根拠のない偏見を持っていた。彼は、人種をHomo sapiensに属する亜種だと考えて、ヨーロッパ人Homo sapiens europaeus :白くて、活気にあふれ、想像力に富む。アジア人Homo sapiens asiaticus:黄色くて、憂鬱な気質、柔軟性に欠ける。アフリカ人 Homo sapiens africanus: 黒くて ずるい、怠惰、無頓着な気質。アメリカ人(インディアン、インディオ)Homo sapiens americanus:赤っぽくって、粘り強い。と分けた。差別的でないとは言わないが、まあ、ここまでは良い。それ以外にも亜種があって、野生人(Homo sapiens ferus )、奇形人(Homo sapiens monstrosusというのがあって、これがなんだかわからない。多分、当時の人から、旅行話や噂話や聞いて、そういうのもいるんだなと思って、適当に書いたのだろう。彼は、何でも分類したい人だ。何かを分類せずにはいられない。私の周辺にもそういう人はいる。だけど、十分なデータがないから。ヨーロッパ人、アジア人、アフルカ人、アメリカ人(アメリカン・インディアン)についても、適当に書いてる感じだ。彼自身はヨーロッパ人だから、白人をよく書きたいという心理はわからないでもない。差別意識も悪意もないのかもしれないが、こういうのが意外と厄介だ。偏見に基づく人訴差別という意味で、よく取り上げられるのは、アルチュール・ド・ゴビノー(1816-1882)だ。この人が、「人種不平等論」を書いた。ドが付くから、貴族だと思うかもしれないが。自ら伯爵と名乗っただけだ。この辺りからわかるように、かれは貴族主義というか古典主義だ。だから、なんでも古いものが好きで、人種も神が作ったものだから、それぞれの人種がそれぞれの役割を果たすべきだと考えたのだと思う。それぞれの役割があるのだから、人種は混ざり合ってはいけない。彼は混血が進むことによって、その役割があいまいになり、ヨーロッパが退化すると考えた。はた迷惑な話だが悪意はない。彼は白人の優越性は唱えたが、反ユダヤ主義ではなかった。むしろ、ユダヤ人を知的で高潔な民族だと評価していた。というか、ヨーロッパのユダヤ教徒はほとんだ白人だ。
当時のヨーロッパの人たちは、実証主義的な説明に納得する一方で、依然としてキリスト教的なものに縛られていたから、科学的な成果をキリスト教の神話と結び付けて聖書に書かれたことを事実として、それを実証しようとする人たちがいた。具体的に言うと、ダーウィンの進化論を受け入れたうえで、それをも、神の意志として、聖書を解釈しようとする人たちがいた。今でもいる。実証主義といっても、あそこにあれがある、あそこのこれが書いてあるとりいうような、断片的な事実を、つまみ食い的にとりあげて、つなぎ合わせただけの代物なのだが、結構、説得力がある。いまでも、テレビのドキュメンタリー番組で何か言われるとすぐ信じ込んでしまう人がいるのと同じことだ。
セム語族ないしセム族という言葉を使ったのは、アウグスト・ルートヴィヒ・シュレーツァ(1735-1809)という人らしい。1781年に彼が書いた論文の中に、セム族という言葉が使われた。 セムはノアの箱船のノアの3人の子供の長男の名前だ。ここが全くよくわからないところなのだが、ノアの箱舟が陸についた後、ノアは、ブドウ園を作って葡萄酒を飲んで、酔っぱらって醜態をさらす。その時。醜態をさらした(裸で居眠りした)ことを周りの人に告げたのがハムで、それをかばったのがハムの兄弟のセムとヤテペだ。聖書というのは時代考証もあいまいなどうでもよい本なのだが、その時代の人がどんな枠組みでものを考えたかは推測できる。ハムに怒ったノアは、ハムの子供のカナンが呪われるといった。なんだかわからないけどそう言った。多分、相手をののしるときに、その子孫が呪われるというような言い方をしたのだろう。なんだか、弱虫がギャーギャー言っているようで嫌いだ。だいたい、醜態をさらしたのは自分自身だ。それを告げ口されたのが気に入らないなら、せいぜい、「このオッペケペーめ」といったほうがまだましだ。しかし、これで、ハムの子孫は悪者になって、セムとヤテベが良い人という評価になって、それぞれの子孫が、中東、地中海沿岸、北アフリカ、ヨーロッパ、インドの一部に拡散して住む事になるのだが、それで、この聖書に書かれた故事を使って、アラビア語、アムハラ語、ヘブライ語などを。セム語族と呼ぶことにしたらしい。罪を犯したのは父親のハムなのに、その子のカナンを呪ったというのは、カナンの子孫になる民族を呪ったという意味だろう。だとすれば、これが世界初の人種差別発言で、ハム人は呪われているから、セム人に仕えるべきだということになる。この日を「世界人種差別記念日」とすべきだ。もちろん、シュレーツは、分布する地域が、たまたま、ヘブライ語に近い言語が使われていたので、聖書にちなんでセム語族と名付けたのだと思う。当時のヨーロッパにしてみれば、聖書の話は知っているから、パッとイメージがわく名称としてセム人、セム語族という言葉を使ったのだろう。この場合も、シュレーツに悪意はなかった。それはそれとして、3つのうちの2つに子孫集団があるならば、もう一つのヤテペの子孫はどこへ行ったのかという余計なことを考えてしまう。ハムがアフリカ、セムが中近東ならば、残るヤテペは、黒海やギリシャ、ローマの方面に展開して、ヨーロッパ方向に向かうというのがありそうな話だ。比較言語学の初期には、これが、ヨーロッパの白人の祖先と信じられていたようだ。また、ウイリアム・ジョーンズは、ヤテペ人の一部は、インドに行ったと述べている。そうだとするとそれがアーリア人になるのかもしれない。これが、多分、アーリア=ゲルマンという発想のもとだ。ネットを探すと、よせばいいのに、今でも、この辺りの話を熱心に分析したり、解説したりしていて、何とか人がカナンの子孫で、かんとか人がセムの子孫で、ヤテベの子孫が何人だなどと言っている。ヤテベの名前の意は広いだから、多分、中近東から離れたところについては情報がないので。その他大勢。広いのがヤテベになっている。いい加減な話だ。セム、ハム、ヤテベが実在したとは思えないから、全部、科学的根拠のない意味のない分類だ。多少の民俗学的な話をつまみ食いして、切り張りした与太話だと言ってよい。まあ、元々、何かだという、過去の立ち戻った話をするのが好きなやつはいる。そういうやつが、インド・ヨーロッパ語という、比較言語学的には根拠のある話が出てきたので、それに飛びついて、つまみ食いしたのだ。
この話は、ユダヤ教が成立する前の話になる。ユダヤ教が成立するのは、アブラハムが出てきて、神と契約したからだ。だから、この話では、ユダヤ教とキリスト教は同根ということにはなるので、反ユダヤには結びつかない。聖書ではアブラハムはセムの子孫だ。アブラハムの信仰を神が疑わなくなったのは、アブラハムが晩年にできた大切の子供イサクを生贄にささげたからだ。アブラハムは900年以上生きたのだから、晩年とは言えないかもしれない。それで、神はアブラハムの信仰を信頼し、アブラハムとその子孫にカナンの地を与え、子孫繁栄を約束する。これを読むと、私は、この神様はずいぶん器量の小さい神様だと思う。自分を試すなと言いながら、相手を試している。こういうやつとは付き合いたくないというのが本心だ。(実際、つきあってないけど。)。だが、しかし、アブラハムは、神と契約を結ぶ、アブラハムの子孫がユダヤ人ということでユダヤ人という言葉が確定しそうだが、ユダヤ人的には、ユダヤ人の母親から生まれた人はユダヤ人だ。それに加えて、他民族でもユダヤ教を信じた人間はユダヤ人だ。ここがちょっと難しい。遺伝的生物学的な意味のユダヤ人と、慣習や文化を共有する集団という意味のユダヤ人が両方含まれているのだ。いずれにしても、キリスト教もイスラム教も、ユダヤ教の宗教改革みたいなものだから、この時が。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の一神教の記念すべき始まりだ。それで、キリスト教、ユダヤ教、ムスリム教はすべて、アブラハムの子孫ということになる。
簡単に、紀元前ちょっと前としておこう。イエスが、マリアとヨセフの子としてベツレヘムの馬小屋で生まれた。かなり賢い子だったらしく、子供のころからユダヤ教のラビなんかと神学論争ができたらしい。30過ぎて洗礼者ヨハネのところに行って、洗礼してもらった後、ガリラヤ湖に行って、ガラリア湖の漁師たちに新しいユダヤ教を普及する。イエスの父のヨハネは大工だから、イエスも大工仕事は上手で、多分、船大工としてもかなり腕が良かったのではないかと思う。そういうことが上手だから、ガリラヤ湖の漁村の人たちに人望があって、説教が上手だったのではないかと思う。おまけに、ガリラヤ湖の魚を塩漬けにして、ローマに流通させていた、魚問屋のおかみさんのマグダラのマリアが、パトロンについたから。その宗教は急速に普及する。これをねたんだのが、当時のユダヤ教の指導者で、人気のあるイエスに嫉妬して、神に対する冒とく罪として裁こうとして、最後は、ユダヤを植民地としていたローマ帝国の総督によって、磔になったと聖書には書いてある。このことのキリスト教的意味は、当時、ユダヤの人々は、ユダヤ教の戒律から言えば、かなり堕落した生活を送っていて、ユダヤ教の神様からすれば、当時のユダヤ人は、罰を与えて殺すべき存在だ。イエスが死んで、その罪を肩代わりしてもらう。そのおかげで、彼らが死なずに済んだのだから、身代わりになったイエスの教え通りに、ユダヤ教の戒律を守って生きるようにということになる。この教えが受けたのだと思う。罪は怖いから、罪が許されるというのは悪くない。ユダヤ教にしてもキリスト教にしても、その神様は無茶苦茶怖い存在で、人を罰して殺す。しかもかなり狭量だ。彼が世界を作ったのだとすると、彼の作ろうとしたものは、ひどく教条主義的で大らかさがなく、アート(人が作るもの)としては、傑作にはなりそうもない。だが、彼が作った世界は、神様の思い通りにならなかった失敗作で、おかげで結構面白い。怪我の功名というやつだ。その狭量な神様が与える罰を、イエスに身代わりになって受けてもらうのは悪くない。ということで、キリスト教徒、ユダヤ教が分かれるのだが。この聖書の話に基づけば、キリスト教徒も民族的にセム人だ。
ジョゼフ・エルネスト・ルナン(1823-1892)というフランスの宗教史家が、1863年に「イエス伝」を書く。この中で、彼は、イエスを人間としてとらえて、彼の卓越した博愛思想をたたえている。彼は、もともと宗教家になろうとしていたが、啓蒙主義あるいは近代の科学主義に傾倒して、不合理な迷信的な部分を全部否定して、聖書を合理的に解釈した。その結果イエスを卓越した倫理観を持ったと「人間」と評価した。この本は大変評価が高かったらしいから、宗教的なものを、近代合理主義の立場から見直すというのは、当時のヨーロッパで、一定の支持を受けていたのだろう。彼は、教条的で陰鬱なユダヤ教からは、イエス的な発想は出てこないと考えた。イエスの思想を育んだのは、ガリラヤの地の開放的な明るさであるとして、もともとイエス的な思想はもともとガリラヤにあったとした。そして、ガラリアの人は、それをセムの子孫ではなく、ヤテベの子孫=中央アジアからヨーロッパに分布したアーリア人だとした。彼にとって、そのアーリア人は、古代、バラモン教を作った、明るく聡明に人たちだ。とにかく彼はそう感じたのだろう。「セム系言語の一般史および比較体系」(1855)では、セム族とアーリア族を決定的に異なる人種として区分して、アーリア人が最終的に世界を主導することになり、その時、セム人はもはややることがなくなって、衰退すると書いた。この辺りは、どうしてそうなるのか、私にはわからないのだが、「イエス伝」を読んだ人に聞くと、彼はかなりの名文家らしい。そういう人は、興奮すると、文章の流れで、わけのわからないことを書くのかもしれない。とにかく、陰鬱な、教条主義的、一神教の民族宗教(セム族)と、明るく、開放的で、慈愛に満ちた、世界宗教(キリスト教)という対比になっていて、もはや、ユダヤ教とキリスト教という宗教の対立、あるいは民族な対立ではなくて、遺伝子を共有する集団(人種)の対立になっている。不思議なのは、一神教に対する、キリスト教という対立構造だから、キリスト教は多神教側になっちゃてる。多分、アーリア人が作った、バラモン教が多神教だからだと思う。衰退するとされたユダヤ人の方からすれば、何を阿保なこと言っているんだという程度の話だが、多くのドイツ人(アーリア人)にとっては、壮大でロマンチックな、夢のある話だったかもしれない。劇的で壮大なスケールを持った話で、ワグナーの音楽のようだ。
この、ユダヤ教(セム人)とキリスト教の対立が、人種的なものだとする考えかたが広がったところで、ジャーナリストのヴィルヘルム・マル(1819-1904)が「ゲルマン民族に対するユダヤ民族の勝利」を出版する。彼は、ユダヤ人がドイツで、社会的・経済的に成功をおさめ、影響力を持つことを脅威と感じて、セム人がゲルマン人の文化に侵食して、支配し、それにゲルマン人が抵抗できないと主張した。ルナンの主張では、アーリア人が最終的に理想化された世界を支配して、セム人(ユダヤ人)は勝手に消滅するのだが。マルの主張では、成功すべきアーリア人を妨害するセム人(ユダヤ人)というとらえ方になっている。それまでの、宗教的な違いや文化的な違いによるユダヤ人差別とは内容が変わってしまった。その後に、第一次世界大戦の敗北とドイツの不況という歴史が始まる。その過程で、有害な人種としてのユダヤ人という、考え方が広がる。
以上が、ヒトラーが全体主義的にドイツを支配するための道具として用いた、ユダヤ人差別が、社会に受け入れられた背景なのだが、一つの疑問がある。目的はユダヤ人差別ではなくて、全体主義(fascism)の実現だろう。ユダヤ人差別はそのための一手段だ。もちろん、ユダヤ人の財産、知識、技術などを没収して利用できるという利益があったかもしれないが、そもそも、全体主義的な統治をなぜ受け入れたのかということを、分析しなくてはならない。その当時、ドイツには、相当数の知識人がいたはずなのだが、その人たちが全体主義になぜ反対しなかったのかという疑問である。こちらの方がもっと重要で難しいかもしれない。
そもそも全体主義(fascism)が、いったい何を目的として、どんな国を実現しようとしていたのかがわからない。多分、右翼(保守)でもなく、左翼(革新)でもない。ファッショの語源は、木の束だから、様々な利害を持つ人々を束ねるの意味だろうが、政治的には、国民で構成される国民国家(近代国家?)で、そのように立場・意見の違う「国民を束ねる」の意味だろう。もし初めから、国民が同じ意見ならば、わざわざそれを束ねる必要はない。反対に、意見が違う様々な人がいた場合、これらを全部束ねることにも意味がない。束ねた集団の中に違う意見があるのだから、これを調整しなければならず、束ねても束ねなくても同じことになる。だから、おそらく、ある範囲内の意見を持つ人間で、多数派を構成して、これを束ねて、自分たちを「俺たち」として、そうでない人間を、「あいつら」として、敵視するということだと思う。そうすると、誰を切り捨てて、誰を仲間とするのかという問題になる。とりあえずは、最大公約数的な、中間的な多数派が、「俺たち」になることが多く、その意見分布の外側が、「あいつら」ということのなることが多いと思うが、時には、自分 と意見が近すぎる人々も、「あいつら」となる。大衆の支持がそちらに傾いてしまう可能性があるからだ。例えば、日本の大政翼賛会も、一国一党のような、独裁体制を目指したのらしいのだが、いろいろな政党が、付和雷同的に大政翼賛会に入ってきてしまって、何がなんだかわからなくなって、その結成時には、綱領も宣言もまとまらなかった。この辺りは、実に日本人的で、大政翼賛会さえまともに作れなかったと言われたみたいで、ちょっと情けない。日本人は原理原則的に、切り分けるのが苦手だ。まあしかし、いつでも原理原則的で論理的な方が良いということでもないから、まあ、仕方ない。話をドイツに戻す。一致団結して何かを目指すという姿勢は、積極的な姿勢である。貧困状態では、積極的に何かをするという意思を持ちにくいし、自分たちの可能性を信じて積極的な姿勢をとるということはほとんどない。しかし、ある程度、経済的に成功してくると、異論を排除して、積極的に何かをサッサとやれと思うだろう。こういう時は、国民一致団結して、ある方向を目指すというのは、受け入れられやすい主張になる。その場合、議論をあまり細かい違いのところに持ち込まないほうが良い。細部についての意見の違いは必ずあるから、そこを突っ込まずに、大枠賛成みたいにして、あとは、現場、あるいは、専門家の判断でやるという風に合意してしまうのがコツだ。だから、何をするかということも、曖昧な方が良い。自分たちの国を豊かにするとか他の国に侮られない大国にするとか、とにかく、みんなが賛成せざるを得ない、よくわからない目標にしておくほうが良い。実際には、どうそれを実現するかが問題なのだが、それは、専門家(建前としては、官僚、軍隊、技術者等々)に任せとしておけばよい。もう一つ、自分たちに対する「あいつら」を作らなくてはならないが、これは結構難しい。幸い、ドイツには、というか、世界中にユダヤ人がいる。アーリア人として、未来が約束されたドイツ人を、妨害するのはユダヤ人だ。もう一つ、官僚任せで、経済を動かすという発想だと、社会主義経済のような計画経済・統制経済になる。似たような政策になるので、排除する必要があるので、共産党も「あいつら」になる。こちらは、政策的に似ているからである。
最後に、イデオロギーというか、思想というか、哲学というか、なんというのかよくわからないが、社会があらかじめ決められた方向に向かって変化していくという考え方、社会進化論について考えてみる。ネットで、社会進化論について調べると、ハーバート・スペンサー(1820-1903)が、社会進化論を提唱したという解説が出てくる。進化論という学問分野の研究史考えると、確かにそれはそうなのだが、社会進化論を最初に考えたのは。ハーバート・スペンサーではないと私は思う。社会進化論を社会ダーウィニズムということがあり、実際、スペンサーは、種の起源を読んで、それを参考にしたと言っているが、社会が時間とともに変化してきたということは、歴史を学べばだれにでもすぐにわかる。また、自分の生きていた時代を振り返っても、社会は時間とともに変化するものだということに納得するだろう。だが、この社会進化論という考え方は、偶発的な変異が蓄積されて、未知のもの変化していくという、ダーウィン的な考え方ではなくて、何らかの法則によって、定められた方向に向かって、社会が変化して、やがてどこかにたどり着くという発想なのだ。そういう発想、つまり、歴史に一定の方向性があるという考えは古来珍しくない。ユダヤ教の、ユダヤ人ア最後に祝福さえるというのも社会進化論だし、最後の審判に向かって、世の中が進んでいくというのも社会進化論だ。だから、社会進化論は、そこら中にあるのだが、近代になって社会進化論的なものの考え方をした人の代表はヘーゲル(ゲオルグ・ヴィルヘルム・フリードリッヒ・ヘーゲル:1770-1831)とマルクス(カール・マルクス:1818-1883)だろう。彼らの思想を、社会進化論として分析したり、説明したりした文章は読んだことがないのだが。私は、これらをひっくるめて、社会進化論だと理解した方が、わかりやすいと思っている。ヘーゲルによれば、歴史(社会進化)の方向の先にあるのは自由であり、人間の理性が世界をコントロールすることなのだが、その感覚は、近代の科学の発達を背景にしていて魅力的だ。進化論では、進化のメカニズム、動力のようなものの説明が必要だが、ヘーゲルの社会進化論の中では、それは弁証法だ。ヘーゲルの弁証法は、テーゼがあって、アンチテーゼがあって、アウフヘーベンして、ジンテーゼ、それが次のテーゼになるというやつで、これで説明終わりなのだが、なんのこっちゃかわからない。具体的に言うと、例えば科学の場合、ある説(テーゼ)があって、その説の矛盾を突く(アンチテーゼ)があって、それらを比較・検討して、合理的に整理して(アウフヘーベン)、次の仮説が生まれて(ジンテーゼ)やがてそれが定説化する(次のテーゼ)という形で、無限に真理に使づいていくという考え方で、漸進的に真理に近づいていくという点で、科学の経験的認識という考え方に似ている。ヘーゲルは、歴史もこのメカニズムで変化してきたのだと考えた。彼にとっては、変化するものは。人々の自由だ。この辺り、いかにも、近代の市民社会形成期にふさわしい考え方だ。彼の歴史感では、中国やペルシャの古代王朝のようなものがあって、そこでは皇帝だけが自由なのだが、ローマ帝国になると、貴族が出現してきて、貴族階級が自由で、奴隷は不自由だ。西ローマ帝国が滅んで、絶対王政の封建制になると、それぞれの国の皇帝が自由で、その他は不自由になるのだが、フランス革命のような市民革命がおこると、市民が自由になる。そのようなプロセスで、最終的にすべての人々が自由になるという、歴史感なのだ。超楽観的だが、これはまあ、わからない考え方ではない。しかし、彼の歴史感の時間軸は少し面白くて、時間というよりは、空間的な感覚で、おおよそ東洋から西洋という流れになっている。「歴史哲学講義」(1838)は、ヘーゲルが、ベルリン大学で1822-1831年に行った、「世界史の哲学」という講義の内容を、彼の死後、弟子たちがまとめたものである。当然、私は読んだことがない。読めない。まあ、目次程度はわかるから、そのあたりの知識で要約すると、まず、古代東洋(中国、インド、ペルシャ、ユダヤ、エジプト)と、ギリシャ・ローマを中心としたヨーロッパを比較して、東洋を人間の自由という意味では停滞的であるとして、その意味で、人々の自由を開放していったのは、ギリシャ・ローマに始まるヨーロッパだとする。そして、市民革命を経て、絶対精神と一体化した個人の自由がドイツの市民社会で実現するとした。絶対精神と一体化した人格というのがどういうものかわからないが、とにかくそういうものらしい。何を言っているのか、わからないが、そういうもの(歴史の到達点)が、最終的にドイツで実現するということだ。そこは、わかった。しかし、なんで、それで終わりになるのか、よくわからない。とにかく壮大なハッピーエンドで、話を盛り上げて話を終わる必要があったのだろう。多分そういう演出なのだ。そんな、演出がなくても、ヘーゲルの言っていることは、賛否はともかくとしてわかるし、それだけで、十分スケール感のある、大哲学だ。何も、そんな大げさなエンディングなど不要だろう。私は凡人だからよくわからないが、大学者というのは、それだけ話を盛り上げないと居られないのかもしれない。何故、それが、ドイツで実現するのかもよくわからないが、講義したのがベルリン大学で、プロイセンに招かれてベルリン大学の学長をやっていたわけだから、とりあえず、ご当地を持ち上げておく必要があったのかもしれない。大学の講義も、一種の興行のようなものだから、ご当地に感謝して、未来が約束されていると持ち上げておいたというのはありそうだ。相撲の巡業だって、巡業先のご当地を、ちゃんと持ち上げる。そういうことなら、相撲甚句も、ヘーゲルさんも、変わらないのが、世の中だ。ハー、ドスコイ、ドスコイ(ちゃんと、7、7、7、5で、甚句になっているところを、頑張りました。)。
参考、相撲甚句「当地興行」
ハー、ドスコイ、ドスコイ
ハァーエー
当地興行も 本日限り ヨー
ハー、ドスコイ、ドスコイ
ハァー 観進元や 世話人衆
お集まりなる 皆様よ
ハー、ドスコイ、ドスコイ
いろいろお世話に なりました
お名残惜しゅうは 候(そうら)えど
今日はお別れ せにゃならぬ
我々発ったる その後も
お家繁盛 町繁盛
悪い病(やまい)の 流行らぬよう
陰からお祈り いたします
これから我々 一行も
しばらく地方ば 巡業して
晴れの場所にて 出世して
またのご縁が あったなら
再び当地に 参ります
その時ゃ これに 勝りし ご贔屓を
どうか ひとえに ヨーホホホイ
ハァー 願います ヨー
ハー、ドスコイ、ドスコイ
もう一人の、マルクスだが、こちらの方は、言わずと知れた、弁証法的唯物論なのだが、これも、わかったようで、わからないところがあって、いろいろな解説を読むと、ますますよくわからなくなる。まあとにかく、世の中の構成要素を、上部構造(文化、思想、法律、政治等々、物質的でない観念的なもの)と下部構造(農地、工場、機械、道具などの生産手段と、労働者と資本家の関係、所有、配分などの生産)に分けて、下部構造によって、上部構造が決まると考えて、下部構造の変化によって、歴史が作り出されてきたと考える進化論だと、ものすごく単純化しておく。これで、唯物論的な進化論だという説明は出来たが、弁証法の方はどう説明するのかという問題があるが、こっちの方は、まあ、下部構造の変化によって、上部構造ができたとしても、どうしてかわからないけれど、それを否定する意見というか階層というか、そういうものができて、その間で、階級闘争が起きて、カビ構造が最適化して、とりあえず、次の段階に進むという、ヘーゲルの弁証法的なメカニズムなのだと思う。なんだか知らないけれど、否定するものが出てくるというところは、ダーウィンの進化論ぽいところもある。ただ、ダーウィンの進化論は進化の方向については何も言っていないのだが、マルクス的進化論は、進化が進んでいく方向がある。
彼が描く歴史は、原始共産制(平等な社会)→生産性が上がって富める者と貧しい者の違いができた社会(市民-奴隷)→封建社会(貴族-市民)→資本主義社会(資本家-労働者)→共産主義社会(平等)という流れの歴史になっている。各段階で、その制度が行き詰まると、革命があって、次の段階へ進む。最後の共産主義社会のところは、観察された事実ではなくて、彼の予想ということになる。多分、彼はそうなると思ったのだろう。おそらく、そうなるべきだと言ったのではないと思う。そこんところは、良くわからないが、多分、無茶苦茶詳しい人はいると思う。ただ、「あて物と越中ふんどしは、向こうから外れる。」というから、そうなるかどうかはわからない。
長かったけど、ヒトラー率いるナチスが、ドイツにおいて、指示された背景を整理すると以上のようになる。当時の知識人・文化人だって、大方の人は、その方向性はともかくも、決定論的進化論を信じていて、それに、国民国家という建前が加わると、皆でその方向へ、努力しなければならないと、思ってしまっただろう。特にクリスチャンはそういう発想に弱い。クリスチャンは無神論者ではない(当たり前だ。)。だから、歴史にそういう社会背景があっあらかじめ決まっている方向性などないという、無神論的発想を持てない。西洋人が、無神論者を恐れるのはそういう理由だ。この感覚は、日本人にはわかりにくい。ドイツの人がヒトラーを信じたのは、ヒトラーの演説がとてもうまかったからだという説明は、納得がいく説明ではない。彼の演説を見てみたが(聞いてみたのではない、ドイツ語分からないから、聞いても意味ない。)、比較的、静かに、小さな身振りで、話始め、少しずつ大きな声になって、身振りが付き始める。最後は、大きく手を振って、絶叫調になるという、ありそうな演出で、あらかじめフリをつけられていることがわかる。あのやり方で、異なる意見の人を、納得させることは出来ない。意見の異なる人の前で、あんな身振りで話す奴は、頭がおかしいとしか思われかねない。彼の演出が成り立つのは、初めから、聴衆が彼に同調しているからだ。つまり、聴衆は、初めから、国民が束ねられて、一致してどちらかに進むという考え方を受け入れているのだ。おそらくそれは、不況の波を乗り越えて、経済的に発展し始めたという自覚と、新たに生み出されてくる「科学」の情報に乗り遅れまいという思いと、無神論的発想に耐えられないという、キリスト教徒的制約の葛藤もある。そのあたりを、都合よくつまみ食いして、作られたジャーナリズムの扇動に乗ったためだろう。
ジャーナリズムにあおられた、「正義」による大衆の政治参加は、時には、扇動した人たちさえ制御不能になる。大衆は、何もそこまで、ジャーナリストを喜ばせる必要はない。ジャーナリズムにあおられて、積極的に政治に参加していくことが、結構危ないことなのだということは、わかっただろうか。そんなことはどうでもよいという人たちを大切にした方が良い。